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「羽生はすっかり鬼になっていた」“風邪気味”だった羽生善治25歳が七冠独占した日[2023.6.9]

「羽生はすっかり鬼になっていた」“風邪気味”だった羽生善治25歳が七冠独占した日

【記事詳細】Yahooニュース

✍️記事要約

✅ 「やはり七冠は無理だ…」藤井聡太七冠で思い出す27年前「羽生はすっかり鬼になっていた」“風邪気味”だった羽生善治25歳が七冠独占した日

将棋の藤井聡太竜王(20歳)が6月1日、史上最年少で名人のタイトルを奪取し、七冠を達成した。これは27年前、1996年に羽生善治九段(52歳)が七冠独占して以来となる(※現在はタイトルが8つある)。

「今後、七冠の可能性はないと思います」じつはかつて、羽生善治はそう話していた。羽生善治の七冠独占とはどんな社会現象だったのか? 「やはり、無理だ……」一度はあきらめかけた25歳の羽生が偉業を達成するまで。【全3回の1回目/#2、#3へ】

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かつての羽生善治「今後、七冠の可能性はない」

 2023年6月1日、将棋の藤井聡太が渡辺明から名人位を奪取し、七冠を達成した。七冠達成は、1996年に羽生善治が史上初めて達成して以来、27年ぶりの快挙である。

 その羽生は、かつて元棋士の鈴木輝彦によるインタビューで、七冠を今後、ほかの人も含めて実現する可能性はあるかと問われ、《ないと思います。正当な競争原理が働けば1人が独占するのは難しいでしょう。体力も続きません(笑)》ときっぱりと答えていた(鈴木輝彦『神の領域に挑む者――棋士それぞれの地平』日本将棋連盟、2014年)。

 羽生の予想は今回覆されたわけだが、インタビューの時点ではそれが彼の実感であったのだろう。それはとくに「体力も続きません」という言葉にこもっているように思われる。七冠を制覇する前から、羽生は、タイトル戦は体力がいるので若いうちにしかできないと、ことあるごとに口にしてきた。

 七冠達成時の年齢でいえば、羽生が25歳5カ月だったのに対し、今回の藤井は20歳10カ月と5歳近くも若い。六冠から七冠を達成するまでの時間も、藤井の場合、1カ月あまりしかかかっていない。これに対し、羽生は1994年12月に竜王の座を同世代の佐藤康光から奪って六冠を達成後、翌95年の年明けより残った唯一のタイトルである王将の獲得に挑むも、当時の王将・谷川浩司に敗れたため、さらに1年待たねばならなかった。

■ 「地震のほうが怖かったですからね」

 このときの勝負には、ある歴史的な事件が少なからず影響をおよぼしていた。1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災である。

 神戸に住む谷川は王将戦の第1局で先勝した5日後、この厄災に見舞われた。羽生は谷川が被災したと知り、対局は延期になるだろうと考えたという。だが、谷川には延期してもらうつもりはなかった。震災発生から3日目の朝に妻の運転する車で神戸を脱出、11時間かけて大阪のホテルにたどり着くと、翌日には米長邦雄との順位戦で快勝する。そして、そのまま日光に移動して羽生との第2局にのぞみ、2勝目を果たした。

 谷川はのちに振り返って、《乱暴な言い方をするなら、「羽生さんに負けて王将を取られたって、別に命を取られるわけじゃないし……」という心境になれた。いくら羽生善治が強いとは言っても、やはり地震のほうが怖かったですからね》と語った(『SAPIO』1996年7月24日号)。

 結局、七番勝負は3勝3敗で第7局までもつれこむ。谷川からすれば、羽生は因縁の相手であった。谷川は1983年に当時最年少の21歳で名人を獲得し(藤井聡太はこの記録も今回更新した)、一躍脚光を浴びた。七冠を目指すと宣言したのも彼が最初である。それは1992年、前年に防衛した竜王の就位式のことであった。同年中には王将も奪取して四冠となった彼が、今後タイトルを争う相手は彼しかいないと名指ししたのが羽生だった。その言葉どおり、それからというもの谷川は羽生と誰よりも多くタイトル戦を争うことになったのだが、1992年の竜王戦以来、7連敗を喫してしまう。それゆえ、羽生に七冠制覇まであと一歩と迫られたのも自分に責任があると考えた彼は、こうして戦う機会を得たいま、自ら決着をつけるしかないと思って最終戦にのぞんだのだった。

■ 「やはり七冠は無理だ…とあきらめかけた」

 3月23日から翌日にかけて行われた第7局は、まさに両者譲らずの死闘となる。76手で千日手(一局のあいだにまったく同じ状態が4回現れること)となる。だが、このあと、先手と後手を入れ替えての指し直し手でも、40手目まで先の千日手の将棋とまったく同じ手が繰り返された。この勝負は永久につかないのではないかとささやかれた41手目、ようやく谷川が違う手を指して未知の局面に持ちこむと、激戦の末、111手で制した。

 こうして羽生は七冠達成を逃したが、けっして谷川の気迫に押されたわけではなかった。対局後の手記では次のように書いている。

《谷川さんは第二局の前に行われた順位戦にも出たでしょう。谷川さんの気力は、正直言ってすごいなあと思いました。そういう状況になってみないとわからないけれど、私なら、今度のような地震なら、対局を延ばしてもらったと思うんです。ただ、(中略)そのことと勝負は全然関係ありません。勝負が始まってしまえば、それは気になりません。棋士はそれぞれにいろいろな問題を抱えてるわけでしょう、対局になればそれは忘れてやります》(『文藝春秋』1995年5月号)

 谷川に負けたあとも、羽生はあくまで冷静さを示した。上記の手記は《まあ、この一年間で体力や精神力のバランスの取り方はわかりました。このペースでいけば、来年はいけるんじゃないか、とそう思ってます》と結ばれている。

 もっとも、将棋関係者のあいだでは、1年越しでの七冠達成は無理だろうと見る向きが大半であった。何しろ、1年のあいだ、すでに獲得している六冠をすべて防衛するばかりでなく、王将戦に再び挑戦するには、リーグ戦で勝って権利を得なければならなかったからだ。

 当の羽生も、その難しさは重々承知していた。翌年に七冠達成したあとで、《谷川さんに負けたときは、やはり七冠は無理だとあきらめかけていた》と、本心を明かしている(『週刊文春』1996年3月7日号)。実際、1995年中の防衛戦ではとくに王位戦と竜王戦に苦戦し、王将戦の挑戦権をかけたリーグ戦でも、同期の森内俊之との対局であきらめかけるも、相手が最後の秒読み段階になってミスを連発してくれたおかげで辛くも勝利した。

■ 風邪で体調は最悪だった

 こうして試練をくぐり抜けて羽生は1996年の年明け、六冠のまま再び谷川との王将戦に戻ってきた。第1局から3連勝し、2月13日に第4局にのぞむも、直前に風邪を引いてしまう。体調は最悪で、コロナ禍を経た現在なら確実に対局は延期となったであろう。しかし、このときの羽生はそんな悪条件すらメリットに変えてしまう。普段なら落ち着こうとかリラックスしようとか自分に言い聞かせるところだが、熱のためよけいなことを考える余裕がなく、かえって将棋に没入できたというのだ。

 一晩寝て翌14日には、だいぶ体も楽になり、満足のいく将棋になっていった。この日の午後3時頃には形勢が羽生に傾き出す。午後5時6分、谷川の「負けました」の声で投了したとき、羽生の心にまず浮かんだのは、ホッとした思いであったという。谷川はあっさり4連敗で王将の座を明け渡し、「ファンのみなさんにも、羽生さんにも申し訳ない」と語るのみであった。

■ 「羽生はすっかり鬼になっていた」

 羽生は前掲の『週刊文春』に寄せた手記で、先述のとおり、前年の王将戦に敗れて以来、苦しい状態が続いてきたものの《昨年の後半からようやく調子が上向きになってきた。今回の王将戦は、そのピークの時期にうまく重なってくれたのです。/一方、谷川さんの方は、調子を落としつつあった。その差が、四連勝という意外な数字となったのだと思います》と省みた。

 1年越しの谷川との死闘は、震災という不可抗力の出来事もあいまって、羽生の史上初の七冠達成をよりドラマチックなものにした。同時に羽生の勝負強さを改めて世に知らしめたといえる。

 先輩棋士である田中寅彦は、前年の王将戦から羽生を追い続けてきたあるテレビ局のディレクターが、七冠達成時に「去年のほうが羽生さんの顔は、面白かった」と感想を漏らしたのが印象深かったという。田中は、ディレクターがそう言った真意を、次のように解釈してみせた。

《前年のほうが羽生の顔には人間味があったのだと。人間味といえば聞こえがいいが、勝負の世界では、感情や動揺が外に現れるのはマイナスである。己を律してこそ、相手の隙を読みとることもできれば、そこをつくこともできる。かつての羽生にはまだ隙があったが、七冠二度目のチャレンジ時には、羽生はすっかり鬼になっていた》(田中寅彦『羽生善治 進化し続ける頭脳』小学館文庫、2002年)

 羽生は王将への再挑戦という試練を乗り越えることで、勝負師として成長したということだろう。

 では、羽生善治による史上初の七冠独占はどんな社会現象を巻き起こしたのか? 当時の証言から探っていきたい。

■ 「ねえ、公文の人なの?」

 1995年の王将戦は、阪神・淡路大震災により被災した谷川を応援する声が高まり、彼に対する追い風となった。とはいえ、それでも羽生が七冠制覇を実現するかどうかは世間の関心事であった。第7局の会場となった青森県十和田湖畔のホテルには150人を超す報道陣が詰めかけ、NHKのBSでの生中継も急遽決まる。午後9時18分、羽生が「負けました」と盤上に頭を下げた瞬間、ホテル内に設けられた大盤解説会場では、羽生の女性ファンが顔をおおって泣き伏す姿も見られたという。

 羽生の活躍と、彼と同年代の棋士の台頭から、それまで将棋に関心を持たなかった若い女性のなかからもファンが増え始めていた。羽生ブームに乗じて、タイトル戦のほとんどで大盤解説会が開かれるようになり、ライブで楽しみたいと足を運ぶファンも増えていく。

羽生が当時、一般にも広く知られるようになっていたことを示す証拠としては、こんなエピソードも残る。それは彼が王将戦で谷川に敗れた翌々日のこと。羽田空港から飛行機に乗り込む直前、数人の小学生が羽生を見つけて近寄ってきた。そのうちの一人が「ねえ、公文の人なの?」に訊ねたので、羽生は「そうだよ。僕の名前知ってる?」と訊き返すと、「知らなーい」との答え。これに彼はうれしそうに笑って、自分から握手を求めた。

 ここで出てくるとおり、羽生はこのころ、学習塾を国内外で展開する公文教育研究会のテレビCMに出演していた。子供たちに顔は知られるようになったものの、名前まではまだ浸透しておらず、「公文の人」とか「公文の兄ちゃん」と呼ばれるのが圧倒的に多かったという。

■ 子ども100人と同時に指した

 七冠に最初に挑んだころのCMでは、羽生が小学生たちを相手に「百面指し」をして評判を呼んだ。実際にはこのとき対局した子供は70人しかいなかったようだが、彼はこの1年ほど前の1993年7月には、富山県の将棋連盟のイベントで、正真正銘の百面指しを小中学生を相手に行っている。

羽生にとっては、こうした地方でのイベントも、CM出演も、将棋人口が増えることを願っての普及活動の一環であった。富山でのイベントはハードスケジュールをぬっての参加とあって、『将棋世界』の編集長だった大崎善生は、《普及に対する思い入れがなければとてもできることじゃありません》と賞賛した(『週刊読売』1994年10月23日号)。

 このほかにも羽生は対局から離れての仕事も多かった。七冠制覇前後にも、雑誌などに登場してはインタビューに応じたり、異分野で活躍する人々ともあいついで対談している。そこで羽生は自分の考えを理路整然と、ときにはユーモアも交えつつ語っていて、とても20代とは思えない。七冠を目指している最中には、人気作家やミュージシャンが毎号誌面を飾った若者向けカルチャー誌『月刊カドカワ』で、スポーツやゲームについてつづったコラムも連載している。

■ 「将棋以外でも超一流になっていたのでは?」

 著書も当時からあいついで刊行し、さまざまな将棋の戦術を紹介した『羽生の頭脳』全10巻のほか、七冠達成の前後には、翻訳家の柳瀬尚紀との『対局する言葉』(毎日コミュニケーションズ、1995年)、詩人の吉増剛造との『盤上の海、詩の宇宙』(河出書房新社、1997年)といった、異色の組み合わせによる共著もある。柳瀬は翻訳不可能といわれていたアイルランドの作家ジェイムズ・ジョイスの長編小説『フィネガンズ・ウェイク』を初めて全編日本語に訳した人物である。吉増は日本の現代詩を代表する詩人で、柳瀬が、羽生善治という天才の感性と対談するにもっともふさわしい感性であると指名し、NHKのテレビ番組と同時進行で共著が実現した。いずれの本でも、語られるテーマは文学や現代美術など多岐におよび、羽生の旺盛な好奇心に気づかされる。こうした好奇心こそ彼の原動力でもあったはずだ。

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 羽生は将棋界のスターの域を超えた知的シンボルであると同時に、タレント的な資質も持ち合わせていた。前出の公文のCMの別バージョンで羽生と共演した先輩棋士の田中寅彦は、その撮影時、羽生のセリフの飲み込みの早さに加え、現場の雰囲気にすぐに溶け込み、まるでプロのタレントのように違和感なく馴染んでいたことに驚いたという。そしてこの経験から、《羽生はどんな場面でも、その場の最適モードに自分を次々とスイッチし、こなしていく。未知の世界でさえ、あたかも数十年前からいたかのように。誠に不思議。彼はおそらく、将棋以外のどんな道に進んでも超一流になっていたのではないか》と書いた(『羽生善治 進化し続ける頭脳』小学館文庫、2002年)。

■ まるで野茂英雄やイチローのような空気

 もっとも、当の羽生は七冠達成直後の手記で、《二十五歳という年齢で将棋の頂点をきわめたのだから、他のジャンルにも挑戦してみてはどうかといわれること》もあるものの、同じ25歳の若者が一般社会で自然に学び、常識になっていることでも、子供のころから将棋一筋に生きてきた自分にはけっして常識ではないとして、《いまから、他のジャンルに手を出すのは、かなりのハンデ戦とならざるを得ないでしょう。〈羽生の頭脳〉と誉めて下さる方もいますが、あくまで将棋の世界でのことであって、それ以外では、私はごくごく普通なのです》と語っている(『週刊文春』1996年3月7日号)。

しかし、その普通さこそ、それまでの棋士には見られなかったものであった。七冠達成直後の羽生と対談した作家の村上龍は、《羽生さんが出てきて、「将棋が好きで、あとは普通」っていう人が出てきたんだなという感じがしたんです。/そういう人がすごく強いから、みんな戸惑ってしまう》と評した(『サンデー毎日』1996年3月3日号)。

 羽生自身もこの当時、ことあるごとに、上の世代と自分たちの世代の棋士とのあいだにはあきらかに感覚的な違いがあると強調している。上の世代には、遊びも芸のこやしであり、そのなかで修羅場をくぐることが将棋の技術や精神の鍛錬につながるといった考え方があったのに対し、自分たちの世代は、普段の生活と将棋とを割り切っているというのだ。

こうした世代間の感覚の違いは、将棋にかぎらず、芸能やプロスポーツなど、当時さまざまなジャンルで顕在化しつつあった。プロ野球でも、昭和の選手たちがどこかアウトローな雰囲気を漂わせていたのに対し、羽生と同時期に頭角を現した野茂英雄やイチローにはそうしたところは一切なかった。

そんな若い世代のなかでも、羽生の割り切り方はきわだっていた。浮ついたり気負ったりせず、私生活でどんなことがあってもそれを勝負に持ちこまない。そうやって普通さを貫くことが、逆に羽生を非凡な存在にさせたともいえるかもしれない。七冠に再挑戦していたさなか、もっとも苦しかったはずの時期に婚約を発表したのも、そんな“非凡なまでの普通さ”のなせるわざだったのだろう。

 最後に、当時世間をあっと驚かせた羽生と朝ドラヒロインとの婚約・結婚を振り返りたい。

■ 「彼女はいるの?」「結婚したら弱くなるのでは?」

 いまでは若い棋士に恋愛について訊くのは、セクハラになりかねないという配慮もあってか、インタビューでも話題にされることは少ない。だが、20代だった羽生は取材のたび、彼女はいるのかという質問を容赦なくぶつけられた。五冠目となる名人を獲得した直後、とある週刊誌のインタビューでも、例によってガールフレンドはいるかと訊かれ、《いや、いません。結婚も考えたことはないし》と答えると、《まあ、私が将棋に負けてばかりということになったら、恋人ができたと考えてください(笑い)》とかわしてみせた(『週刊ポスト』1994年7月1日号)。

 当時、評論家たちのあいだでは、羽生の強さは若いうちだけで、これが結婚し子供を儲けて将棋のみに集中できなくなれば、意外にもろいのではないか、ともささやかれていた。くだんの羽生の発言はそれを念頭に置いてのものだったのだろう。

そんな周囲の勘繰りをよそに、羽生は六冠を防衛しながら再び王将に挑戦しようとしていた1995年7月に婚約を発表、その7カ月後に七冠を達成した直後、3月に挙式している。しかも、その相手というのが、NHKの朝ドラでヒロイン(1990~91年放送の『京、ふたり』)を演じた経験も持つ女優の畠田理恵とあって、世間を驚かせた。

■ 2人の出会いは?

 七冠達成後に『文藝春秋』に羽生が寄せた手記では、彼女との馴れ初めから交際へと発展し、プロポーズするまでの経緯が(相手が芸能人ということもあるのだろうが)かなり事細かにつづられている。それによれば、2人の出会いは1993年9月、健康雑誌で畠田の持っていた対談ページに羽生がゲストとして登場したときだった。その対談では毎号、畠田が自分の会いたい人を選んでおり、このときは当初、彼女が動物好きなので作家の畑正憲を招く予定が、畑が入院してしまったため、編集者が「名前が似てるから羽生さんにしよう」と提案したという。もっとも、畠田はこのときまで羽生の苗字をハニュウと読んでいたというから、ちょっとこの話は疑わしい。

肝心の対談も、羽生が前日にタイトル戦があって疲れていたため、1時間くらい話をしただけだった。ただ、彼女は、棋士だからきっと芸術家っぽくてエキセントリックな人だろうと思っていたのが、意外と明るい印象を受けたという(『éf』1995年11月号)。

 その後、羽生の同僚である森下卓が2度ほど食事の席を設けてくれたおかげで、2人は連絡先を交換し、羽生のほうから畠田をデートに誘うようになったようだ。デートを重ねるうち、互いに結婚も意識し始める。それでも羽生は、棋士というのは先の見えない職業だから将来の保証はできないと彼女に念を押した。また、今後は将棋界での公的な仕事も増えると見越して、結婚したら彼女には仕事をやめてサポートに回ってほしいと長時間話し合い、理解してもらったという。

■ 谷川浩司「羽生さんは、ちょっと違う」

 こうして婚約を発表すると、例によって「結婚したら弱くなるのでは」ともささやかれたが、それも七冠制覇で吹き飛んだ。もっとも、当の羽生は《結婚して弱くなる人はきっともとから弱いんですよ(笑)。私にとって結婚は普通の節目のひとつです》と、まったく意に介さなかった(『文藝春秋』1996年4月号)。とはいえ、谷川浩司から王将を奪った対局中には《彼女にはいつも電話をしていました。彼女との会話が大きな支えになっていたのです。将棋のルールも知らない人ですが、本当に心の支えとなってくれました》とも明かしている(『週刊文春』1996年3月7日号)。七冠を成し遂げた5日後には、畠田が東京駅で暴漢に襲われて入院するという事件もあり、羽生は衝撃を受けたが、結婚式は無事、翌月に挙げるにいたった。

大勝負を続けるなかで婚約を発表し、マスコミから追いかけられながらも七冠を達成した羽生には、先輩棋士たちも驚くばかりだった。なかでも七冠を許した当人である谷川浩司は、このときの羽生のマスコミからのもてはやされ方に、いままでの棋士にはなかったことだと思うとともに、「羽生さんは、ちょっと違うんだな」と感慨を抱いた。

《七冠制覇をやり遂げることだけでもものすごくエネルギーを使うのに、このたいへんな時期に婚約して結婚する。あれだけのマスコミの注視の中で、いとも軽々とやっているように見えた。/「ちょっと、違う」は、私と違うだけでなく、他の人と比べてもちょっと違うのではないかと思ったのだ。そう思うと「何だ、そうか。ちょっと違うのか」と妙に納得できたところがあった》(谷川浩司『復活』角川文庫、2000年)

 谷川は、羽生と自分は違うと気づいたことで、それまで彼に抱き続けてきたコンプレックスから脱することができたという。

■ 「役割ですか? 役割なんて、あるんですかねぇ」
なお、羽生は七冠達成後、結婚式まではそれを維持したいと語っていたが、七冠はその希望より長く、1996年7月30日に棋聖の座を三浦弘行に明け渡すまで5カ月半キープされた。

羽生の“非凡なまでの普通さ”は、その後にいたっても変わらないようだ。2015年、当時44歳だった羽生を取材していたルポライターの高川武将は、「将棋界が激変期を迎えるなかにあって棋士として、また人間としてあなたの役割は何だと考えていますか」と問うたところ、《役割ですか? 役割なんて、あるんですかねぇ……》と訊き返されたという。驚いた高川がさらに「将棋界の第一人者として役割はありますよね?」と確認したところ、《いやぁ、自覚したことはないです》と羽生は答え、続けて《まあ、普通に、自然にやっていきます。役割はないですよ。自分のできることをやっていく、ということですね》と語った(『超越の棋士
羽生善治との対話』講談社、2018年)。

 自らの役割など考えず、ただ自分のできること、好きなことをやっていく。その姿勢は、社会的な意義や利益など度外視して、ひたすらに研究に打ちこむ学者のようだ。しかし、本人に自覚はなくとも、羽生が将棋界で果たした役割はあまりに大きい。それは誰もが認めるところだろう。彼が7つのタイトルで永世資格を得て、史上初の「永世七冠」を達成したのはこの2年後、2017年のことである。

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☘️ヤフコメ❗️ピックアップ☘️

✅ 谷川さんの凄いところは、この決戦で負けて無冠になって

「谷川さんの時代は短期で終わった、いよいよ羽生時代の到来」

と言われてボロボロになってから再度復活して
全盛期で油の乗り切った佐藤、森内ら羽生世代の強豪たちをフルボッコにして
竜王・名人の頂点の二冠に返り咲き、永世名人も手に入れたところだ

短期間だったがその頃の谷川さんはまさに鬼神の強さで
終盤で羽生さんの指す手が羽生マジックで震えて「羽生勝ちの合図が来た」ところを更にその上を行く絶妙手の光速の寄せで跳ね返したタイトル戦があって大騒ぎだったな
✅ 羽生九段も、藤井七冠も勝負に拘らずに、だた目の前の将棋に全力を注ぐ。結果は後からついてくる。それが七冠だったのではなかろうか。羽生九段は将棋連盟の会長に就かれる。
 減少傾向にある将棋人口の普及へと心血を注がれるでしょうが、その幅広い人脈が生かされるのではなかろうか。余談すすが、例えば職業別の将棋大会を主催することも面白いかもしれません。
 会長職で大変でしょうが、Aクラス復帰と、藤井さんから名人を奪取することで前人未到の100期を達成する。羽生ファンとしての大いなる期待です。
✅ 羽生善治新会長がタイトル独占を果たした前日はずごい高熱におかされ、会場入りしたのが王将戦第四局の対局前日の前夜祭のあとという。
この対局の1日目はかなり辛かったそうで封じ手の後の2日目はいつものように覇気をめぐらせ最後は当時の王将持ちである谷川浩司十七世名人を破り最後の王将奪取。7大タイトル独占となったわけだ。
時は流れ現代、藤井聡太竜王名人は万全の体調で8大タイトル独占となるかどうか期待しましょう。

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