原爆を落としたアメリカを恨まない日本人に決定的に欠けているものとは
✍️記事要約
「日本人は思考停止に陥っているのではないか」。今年3月に急逝した作家の宮崎学さんは、繰り返しそう主張していた。言論誌『月刊日本』での宮崎さんの連載をまとめた遺作『突破者の遺言』(K&Kプレス)から、一部を紹介する――。
■ 「日本人」という自我(2016年5月)
我が国の閉塞へいそく状況は論を俟つまでもない。その根本理由は、我々が思考停止に陥っていることにあるのではないか。冷戦後四半世紀が経ち、世界は再び動乱の時代を迎えているが、日本だけは相変わらず「対米追従」という国是を盲信している。だが、そろそろ乳離れすべきだろう。
本来ならば冷戦終結を転機とすべきだった。そこで日本は思考停止状態のまま、「アメリカ」という選択肢を選んだ。いや、決断を伴わない以上、それは選択ですらなかった。単なる惰性、現状維持にすぎなかった。我々は改めて我が国の針路について思考、決断、選択をし直さなければならない。
その上で私は対米従属でも社会主義でもなく超国家主義でもない、日本独自の道があるはずだと考えている。その可能性を模索する手がかりの一つは、アジアである。
特にベトナム戦争を再考する必要がある。ベトナム戦争は資本主義対社会主義の冷戦、欧米帝国主義対ナショナリズムの独立戦争という二面性を持っていた。それゆえ日本は自己矛盾を突きつけられた。ベトナムの勝利は、日本にとって西側の盟主が敗北した望ましくない結果だったのか、それともアジアの友邦が独立した望ましい結果だったのかと。
■ 中国もアメリカも敵に回した日本の矛盾
だが、この自己矛盾は戦後に始まったものではない。明治維新以来、日本は常にこの自己矛盾に直面してきたのである。我々は近代的な意味での「日本人」という自我を問わなければならない。
自我は他者と出会って生まれるものだ。現在の「日本人」という自我は、ペリー来航に端を発していると言っていい。だが、国際情勢の要請とはいえ、我々はあまりにも性急に「日本人」という自我を形成しすぎたのではないか。つまり、我々は「日本人」という自我を形成強化するために、他者として敵を求めすぎてしまったのではないか。
明治維新は「アジアの帝国主義」を目指した。これは一個の矛盾逆説である、アジアが植民地を意味し、帝国主義が欧米を意味する当時においては。日本の自己矛盾はここに起源を持つように思われる。
日本は「名誉白人」として列強と競合しながら朝鮮を植民地化し中国を侵略した。それと同時に「アジアの盟主」として米英に反旗を翻し「大東亜戦争」を戦った。日本の敵は中国とアメリカだった。言い換えれば、「日本人」とは中国に(敵)対する自我であり、アメリカに(敵)対する自我だった。
■ ベトナム戦争で矛盾を突きつけられた
戦後も自己矛盾は終わらない。冷戦時、「アジアの資本主義国」もまた一個の矛盾だった。日韓以外のアジア諸国の多くは左翼ナショナリズムの道へ進み、社会主義国になっていたからである。それゆえ日本はベトナム戦争のような形で矛盾を突きつけられてきたのだ。
そして冷戦が終わった。そこで不可思議なことが起きた。共産主義が自壊すると、資本主義もまた自壊し始めたのである。世界各国は軒並み資本主義国になったが、みな資本主義の毒に蝕まれている。むしろ各政府は自ら進んで資本主義の毒を全身にかぶっている。
そのエキスが新自由主義である。「カネ」という唯一絶対の価値観が人間の差異を塗り潰し、伝統をぶち壊し、社会を造り替えている。その意味で構造改革は文化大革命と大差あるまい。資本主義は社会主義に近づいているのかもしれない。
■ 明治維新以来の「日本人」という自我を見つめ直す時だ
同じように対立軸や敵を失った日本は宙ぶらりんになり、自我を見失ったのではないか。そのせいか、日本はそのまま単なるアメリカの従属国に堕落していき、そしていま、積極的に中国や韓国と敵対しようとしているように見える。敵を求めることで必死に自我を見出そうとしているかのようだ。
歴史は振り子のように行ったり来たりしながらジグザグに進む。「日本人」という自我もまた、ふらふらと揺れ動きながら生きてきた。それは必然的にアジアに対する敵対という悲劇的な形をとった。しかし冷戦後、米中対立を除けば日本がアジアに敵対しなければならない条件は見当たらない。
いまこそ我々は明治維新以来の「日本人」という自我を見つめ直し、我々が背負わざるをえなかった矛盾逆説と向き合い、新たな道を、すなわちアジアへの真の道を追求すべきである。さもなければ、近代日本の悲劇は繰り返されることになるだろう。
■ 「民族主義者」の目は輝いていた(2016年10月)
台湾に古い友人がいる。中国国民党の蒋介石とともに台湾に移り住んだ男で、いまでは傘寿の老人だ。昔、彼が「日本人は中国で酷いことをやった」と吹っ掛けてきたから、私が「中国共産党はどうなんだ」と切り返すと、彼はこう吐き捨てた。「あいつらはチャンコロだ」。
私は驚いた。大陸から台湾に移ったとはいえ、彼の口からそんな差別語を聞くとは思わなかった。彼は「毛沢東と中国共産党が大陸から我々を追い出した時、何をしたかは忘れない。同じ漢民族だからこそ日本人より遥かに残酷だ」と続けた。その苦々しい声がいまでも耳朶に残っている。
この記憶は喉に刺さった小骨のように、民族あるいは民族主義とは何なのかと私を考え込ませる。
英語では民族主義と国家主義はナショナリズムの一語で表現されているが、一般的にナショナルアイデンティティは他国家、他民族への対抗意識から生まれるものだ。その意味で民族や国家は対外的な概念とされている。しかし、その内側に目を向ければ矛盾に満ちている。
学問的な議論は色々あるのだろうが、それでは説明できない矛盾が民族にはある。民族は、学者たちが研究し、議論し、論文を書いて捉えられるようなものではあるまい。これまでの民族主義は型に嵌まりすぎていたのではないか。学者がどれだけ一生懸命に民族という鋳型を拵こしらえようが、矛盾に満ちた人間がそんな鋳型にすっぽり嵌まることはない。冒頭の言葉は民族という鋳型のひび割れから出てきたものではないか。
■ 戦地にいる人々は語勢と目の輝きが違った
ならば我々は民族をどう考えたらいいのか。その上である民族主義者のことを思い出す。
私は1970年代初めに冷戦下のチェコスロバキアで開かれた青年交流事業に参加した。旧ソ連、中国、東南アジア、アフリカ諸国の青年たちが集まり議論した。旧ソ連と中国の青年は「俺らは革命を達成した偉大な国民だ」と傲慢ごうまんそのものだった。実際マルクス主義の理論水準は高かったが、何の情熱も感じなかった。
一方、東南アジアやアフリカの青年の理論は高水準ではなかった。だが、彼らは論争ではなく独立戦争に生きていた。集会場ではなく戦場にいた。理論ではなく銃火器で武装していた。
その中にあるベトナムの女性がいた。彼女は一目見ただけでは小中学生の少女と見間違うような小柄な女性だった。だが、南ベトナム解放戦線の一員で、誰よりも熱心に民族独立を語った。私はその語勢に圧倒された。目の輝きが違うのだ。旧ソ連と中国の秀才も圧倒されていた。まるで相手にならない。それはそうだ。理屈が現実に敵うはずはないからだ。
それから数年後、サイゴン陥落の報に接した。大半の日本人はサイゴンが陥落するなど思っていなかった。しかし北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線の兵士たちは雲霞の如くサイゴンに押し寄せた。彼らはきっと、あの目をしていたに違いない。
彼女が生きているのか死んでいるのか、いまとなっては知る術もない。何を話したかさえ定かでない。ただあの目の輝きだけが忘れられない。
■ 民族主義は理論では決して血肉化されない
私とてベトナム反戦運動、反基地運動に加わった経験はあった。だが、それは「米帝国主義はベトナム革命を潰すために侵略戦争を仕掛け、無辜の人民を殺戮している。北爆の米軍機は在日米軍基地から飛び立っている。
我々は日越の独立と平和のために反基地闘争を展開し、米帝国主義を打倒しなければならぬ」という理屈から生まれた運動にすぎなかった。目の前で親類縁者が殺される現実から生まれたもの、戦わなければ殺される生活に強いられたものではなかった。だから私の目は、あの目ではなかった。
民族主義は現実的生活において──そしておそらくは独立闘争という現実的生活において最もよく──発見されるものだろう。民族主義は現実的生活に根ざして肉感的に捉えられなければならない。全生命を懸けて戦わざるをえない必然性が身体から出てこなければ、民族主義は血肉化されない。
その基盤から遊離した時、民族主義は脈打つ思想から単なる学術用語、空疎なイデオロギー、あるいは偏狭な排外主義に堕落するのだろう。学者や運動家、排外主義者は民族主義者ではない。「民族主義者」の目は輝いている。民族とは、その目だけが明らかに見ることができ、その目だけに映るものなのかもしれない。
■「アメリカへの恨み」を捨ててはならない(2020年2月)
原爆投下75年である。毎年広島と長崎で開催している平和記念式典では「唯一の被爆国として核兵器なき世界に向けて努力する」という決まり文句が聞かれるが、はっきり言う。アメリカに対する恨みはどこへ行ったのか! 毎年8月に神妙な様子で「核なき世界」を訴える同胞の姿を見るにつけ、アメリカに対する復讐ふくしゅう心を失った日本人に嫌悪感さえ抱く。
アメリカは未曽有の大量破壊兵器を無辜の市民に向け、彼らを一瞬のうちに虐殺した。我々日本人はとんでもない目に遭わされたのだ。少なくとも原爆投下において我々は虐殺された側である。なぜ怒らないか。なぜ恨まないか。それは民族としての根底的感情ではないのか。
戦後、日本はアメリカの核の傘の下に入った。現実政治の中において国家は何が何でも生き残らねばならぬ。そのために利用できるものは全て利用すべきである。「憎きアメリカの核の傘の下に入れるか」などという建前論は甘ったれた幼稚な態度として切り捨てねばならぬ。
■ アメリカに敗北した日本人に欠けているもの
確かにそういう考え方もあるだろう。いわゆるリアリズムだ。だが、これは完全な間違いである。憎きアメリカの核の傘の下に入らざるをえない屈辱感だけは一緒に切り捨ててはならないのだ。それだけは断固として噛み締め続けねばならぬ。
何より、この考え方には「アメリカの核がなければ日本が生き残れない」という暗黙の前提がある。だが、アメリカの核は最大の武器ではないのだ。
日本を守る最大の武器は、日本の国民が国民を思う力だ、国を思う力だ。これもまた民族としての根底的感情である。それがなければアメリカの核があろうが日本が核武装しようが、日本を守ることなどできやしない。逆にそれさえあれば、アメリカの核がなかろうが何がなかろうが、日本を守り抜くことはできる。
戦後日本はアメリカの核に頼った。その結果、いまや日本人はアメリカに対する恨みを忘れ、アメリカの核に頼らざるをえない屈辱感を捨てた。同時に、というかそれゆえに国民が国家を思う力も完全に失った。アメリカに対する恨みや屈辱感という、民族としての根底的感情を手放したがゆえに、同時に、国民が国家を思う力も捨て去ったのである。
■ ナショナリズムは無責任に煽れないが…
その結果、いま日本人は何をしているのか。アメリカに原爆を投下された日に、アメリカの核の傘の下にいながら、「カクナキセカイ」という綺麗事を復唱しているのだ。これほど情けない民族がいるか。これほど恥ずべき民族がいるか。私は悔しい。悔しくて堪らない。
もはや日本の民族的感性は摩滅している。いまさらアメリカを恨めと言っても時代遅れだろう。アメリカともう一戦やるわけにもいくまい。民族の感性とはナショナリズムに他ならないが、これだけ科学技術が進歩した中でナショナリズムが暴走して全面戦争が勃発すれば、75年前の原爆投下以上に破滅的な事態を招かざるをえない。その意味で、確かにナショナリズムは無責任に煽れるものではない。
しかし、だからと言ってナショナリズムなき民族はありえない。いまの日本人を見ろ。民族としての根底的感情をほぼ失った現代人は、精神を喪失した廃人の如く、何も考えずアメリカにすがるだけではないか。
我々は民族としてアメリカに対する反感だけは持っているべきだ。それがなければ日本人とは言えぬ。私はそう思っている。
■ 「反米反中」で生きろ(2020年8月)
米中の対立はすでにポイント・オブ・ノーリターンを超えた。もはや和解の余地はない。あとは正々堂々だろうが卑怯千万だろうが戦うだけだ。
宮崎学『突破者の遺言』(K&Kプレス) 宮崎学『突破者の遺言』(K&Kプレス)
では、日本は米中の狭間でどうするか。大前提として、私は米中どちらも嫌いである。人間の考えというのは感情が先に来て、理屈は後からでっち上げるものだから、以下の文章も私の「反米反中」感情に理屈をつけたものにすぎない。
私の生まれ育った環境に暴力は身近だった。暴力の場数を踏むうちに、やがて自分の中に単純明快なる暴力論を抱くようになった。強い側が弱い側に振るう暴力はダメだ、しかし弱い側が強い側に振るう暴力はいい、これである。
だから私は大国主義が嫌いである。戦前の日本がアジアを侵略したり、アメリカがベトナム戦争を仕掛けたり、中国が少数民族を弾圧したり力ずくで南・東シナ海をぶん取るのが気に入らない。
■ 若い日本人よ、お前らはガンガンやれ
その中でベトナム民族がアメリカ帝国主義を打ち負かしたのは感動的な出来事だった。だからベトナム民族は好きだが、かといってベトナム国家も好きなわけではない。国家権力は他国に暴力を振るうが、返す刀で国民にも暴力を振るうからだ。要するに国家主義、国家権力が気に食わないのである。
結局、米中の狭間で日本はどうするか。日本民族の独立自尊を追求するならば、「反米反中」の立場に立つしかない。アメリカか中国か選べと言われたら、どちらも選ばず、そのリスクを負うしかない。一部にはアジアの国々と連携して第三極を目指すというアジア主義的な発想もあるようだが、それは思想的には可能でも現実的には不可能だろう。
結局、我々は戦後75年間で胡麻擦り上手、世渡り上手の民族に落ちぶれ、惰性的に対米追従を続けるしかないのではないか。今後も民族の自尊心を持ちえない時代は続いていく。
忸怩たる思いは募るばかりだが、私にはもう「反米反中」に生きる時間と気力が残っていない。しかし若い日本人よ、お前らはガンガンやれ。日本人に生まれたならば仕方がない。「反米反中」に生きろ。それが我々の宿命だ。
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