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慶應高野球部、髪型だけじゃない「圧倒的教育の質」[2023.8.25]

慶應高野球部、髪型だけじゃない「圧倒的教育の質」

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✍️記事要約

✅ 慶應高野球部、髪型だけじゃない「圧倒的教育の質」 何事にも本腰を入れて取り組む生徒の姿勢

夏の甲子園で、1916年以来、慶應義塾高校が107年ぶりの優勝を遂げた。107年前と言えば、第一次世界大戦の真っただ中であり、森鴎外も健在で執筆活動を続けていた。読者各位は、1世紀ぶりという躍進に驚いたと思うが、実は「慶應」は、日本野球の「原初」の時期から深くかかわっている学校だ。

近代スポーツの多くは、明治期に日本政府が雇った「お雇い外国人」が、日本の学生に手ほどきをしたことから始まった。野球はアメリカ人のお雇い外国人教師の一人ホーレス・ウィルソンが勤務していた第一番中学の生徒に野球を教えたのが始まりだとされる。151年前のことだ。

■ 明治期から日本野球のトップブランドだった「慶應」

第一番中学は開成学校と校名を改め、のちの東京帝国大学の前身の1つとなった。そうした経緯もあり、日本野球をリードしたのは東京帝国大学の予科と位置付けられた第一高等学校(旧制一高)だった。

草創期の野球は「一高時代」と言われ、旧制一高が圧倒的な強さを誇ったが、これに慶應義塾や学習院など私学が挑戦し、慶應が一高を破ってトップの座に就いた。この慶應義塾に東京専門学校(のちの早稲田大学)が挑戦したことから「早慶戦」が生まれ、のちの東京六大学へと発展し、野球人気は一気に高まった。「慶應」は明治期から日本野球のトップブランドだったのだ。

1915年、日本の高校野球の前身である「全国中等学校野球優勝大会」が始まると、当時東京にあった今の慶應高校に相当する「慶應義塾普通部」は、第1回東京大会で早稲田実業と対戦し4-5で惜敗。しかし第2回は東京大会を勝ち抜き、全国大会に出場。決勝で大阪の市岡中学を6-2で破り全国優勝を果たしている。

日本中に「古豪」と呼ばれる高校は数多いが、107年前の優勝校はとびきりの「古豪」と言えよう。以後も慶應は甲子園の常連校だった。この間、1949年には学校が神奈川県に移転したが、戦後も1962年までは甲子園に出場している。しかしここから40年近くも慶應高は甲子園出場が途絶える。

この間、都市部では「新興私学」が台頭。全国から有望な選手をスカウトし、野球部寮に住まわせて24時間野球漬けにするなど私学ならではの強化、育成システムによって甲子園に進出するようになる。入学の際も「特別枠」を設け、学費免除の特待生など優遇措置もあって優秀な選手が集まるようになった。その代表格が大阪のPL学園高だ。神奈川県でも横浜高や東海大相模高などが台頭した。

■ 野球選手を入試で特別扱いしなかった慶應高

慶應高は「私学」ではあったが、特別枠も野球部寮もない。試験でも有望な野球選手を特別扱いすることもなかった。このために、私学が台頭した1970年代にはかつての強豪の面影は失われ、夏の地方大会では初戦で敗退することも珍しくなくなった。

この事情は大学でも同様で、他の大学が「スポーツ推薦」を積極的に導入するなか、慶應義塾大はスポーツ枠はあったものの入試に合格できなければどんな有望選手でも入学できなかった。1973年、屈指の好投手、作新学院高の江川卓は慶應義塾大を受験したが、不合格。この時は合格発表を見る江川をテレビカメラが追いかけ、大きな話題となった。

このときは学内でも野球好きの教員が「江川卓を慶應に」と大学当局に働きかけたが、かなわなかったという。慶應義塾大学名誉教授で、大リーグの紹介者としても知られる池井優氏は「あのとき、江川が入っていれば」と半世紀前の出来事を今も残念そうに口にする。

この時期には地方大会の下馬評の扱いも小さく、慶應高は「かつての強豪」という扱いになっていた。

こうした状況が変化したのは、1991年に上田誠氏が監督に就任してからだ。上田氏は「エンジョイベースボール」を掲げてアメリカ流の「プレーを楽しむ」「自分で考える」野球を推進した。

この時期に慶應高には推薦枠ができる。文系スポーツ系問わず一芸に秀でた中学生を募集するという制度だ。しかし内申点は45点満点で38点以上。中学の成績も優秀でなければ入学できない。毎年40人が推薦枠で入学したが、そのうち10人ほどが野球部に入った。

こうした才能豊かな選手が入学したこともあり、慶應高は2008年、夏の甲子園に出場。1962年以来、実に46年ぶりのことだった。これ以降、慶應高は強豪ひしめく神奈川県にあって、強豪の一角を占めるようになる。2015年8月、上田誠監督の教え子の森林貴彦監督が引き継いで、今回の快挙へとつながった。

■ 森林監督の「情報伝達の確実さ」

森林監督は慶應普通部(中学)、慶應高時代は野球部で選手だったが、大学では学生コーチに専念、一般企業勤務ののち、教員免許取得と、コーチングを学ぶため筑波大学、大学院で学んだ後に、慶應幼稚舎(小学校)教諭になるとともに母校慶應高の指導者になった。

筆者はここ数年、慶應高で取材をし、森林監督の話を何度も聞いてきたが、いつも感心するのは「情報伝達の確実さ」だ。

森林監督は幼稚舎での授業があるために、練習に出てくるのが遅れることがある。そういうときにグラウンドに行くと赤松衡樹部長が、筆者が森林監督に依頼した内容を完璧に理解して対応してくれるのだ。

高校野球部の監督というと、コーチや選手に「おう、あれやっとけよ」と横柄に指示をする人も少なくないが、そういうところはまったくない。情報伝達はきわめて正確で適切だ。

慶應高は、高校野球のリーグ戦である「Liga Agresiva」の参加校だ。このリーグ戦の特色は、野球をするだけでなくスポーツマンシップを学ぶ「座学」があることなのだが、慶應高の選手は、この講義内容を完璧に理解している。甲子園で活躍している慶應高の選手に「スポーツマンシップ」について質問すれば、すらすらと明快に説明してくれるはずだ。

今回の甲子園では、慶應高の長髪が話題になったが、実は慶應では数十年前から長髪であり、今さらそれを話題にするまでもない、当たり前のことなのだ。

日吉台のグラウンドに取材に行くと、選手たちが気さくに声をかけてくれる。

「どこから来られましたか?」「今日は何の取材ですか?」

大声で「おっす」しか言わない他校の選手とは違い、長髪でもあって、大人びた雰囲気がする。

森林監督は「せっかく来てくださったのだから、きちっと対応するようにしよう」と選手に常々言い聞かせているのだ。

昨年春、慶應高は、知的障害のある中学、高校の野球選手の集まりである「甲子園夢プロジェクト」と合同練習会をした。知的障害があっても、野球をすることで生きる自信をつけ、たくましくなっていく。この話が持ち込まれたときに、森林監督はこれを快諾。

それだけでなく、知的障害についての理解を深めるために、リモートの説明会を開催。練習会に参加する2年生選手が全員参加し、知的障害のある生徒や指導者と意見交換をした。甲子園夢プロジェクトについては、「知的障害者のある球児と『甲子園』を目指すワケ」や「『甲子園夢プロジェクト』が導いたある若者の一歩」で紹介した。

■ 参加選手の全員分の感想が寄せられた

選手たちは、「夢プロジェクト」の選手たちと徐々に打ち解け、守備練習や打撃練習では、しっかりサポートしていた。ベンチでは同じ野球好きの若者として笑い合い、最後は「野球をする仲間」になっていった。

筆者はこのとき、森林監督に「参加した選手たちの感想がほしい」と依頼した。数人分あれば良いと思ったのだが、森林監督は全員分のコメントを集めて筆者に送信してくれた。

そこには、当時の2年生、つまり今夏、甲子園の決勝の大舞台に立った選手も含めた部員たちが、知的障害のある若者と練習をしてどんな感想を抱いたかが、彼ら自身の筆致で書かれていた。

「障がい者に対する認識が変わった。ほぼ境目なんてないし、健常者となにも変わらないと思った。今までは障がい者だから優しく接しなければならないと感じていたが、今回の交流で普通の友達のような関係でいることが相手も自分も幸せになれると感じた」

「障害がある障害者と言葉で分けることができてしまって、心の壁がなかったと言ったら嘘になるが、今回の交流でその隔たりがなくなって障害のある方への理解が少しできたから今後は積極的に関わりを持てたらいいなと思いました」

「自分の家族も障害をもっており、やっとコミュニケーションをとれるようになったのが高校生になってからだったため、会話や教え合う事をすぐできるか疑心暗鬼でしたが、ペアを組んだ選手とは最後に冗談を言えるほどの仲になり、新しい友達が出来た感覚になりました。一言で障害者と括られている人の中でも色々な人がいて多種多様なのだと感じました」

事前に関連書を読み込んだ選手も多かった。みずみずしい言葉が並び、筆者は胸がいっぱいになった。

■ 「何事にも本腰を入れて取り組む」姿勢

慶應高野球部は、野球だけでなく、何事によらず物事に正対して「本格的に、一生懸命に取り組む」姿勢ができているのだ。そして、彼らは「自分の言葉」で話すことができる。そこに感じるのは本当の意味での「ゆとり」だ。

「うちの生徒は、ほぼ全員慶應義塾大学に進学します。勉強は日々大変ですが、受験勉強はないんです。だから、何事にも本腰を入れて取り組むことができます。これもいいところでしょうね」

森林監督のこの言葉からは、私学の最高峰である「慶應」の教育のエッセンスがにじみ出ている。

甲子園のアルプススタンドは、連日、慶應高の大応援団で揺れた。その過熱ぶりはマスメディアで大きく取り上げられた。

88歳になる慶應義塾大名誉教授の池井優氏もアルプススタンドに駆け付けた。

「いや、暑いのなんのって、たいへんでしたよ。でも『陸の王者慶應』の横断幕が直射日光を遮ってくれて、助かりましたよ」

慶應高の大躍進は、高校野球の新たな進化の第一歩になるのかもしれない。

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