日本人が意外と知らない「東京」の「名付け親」とは
✍️記事要約
日本神話は国譲り以前のエピソードがいくつも存在する。そこでは、どのように世界ができたのか、そしてどうしてアマテラスが高天原を主宰し、オオクニヌシが中つ国を主宰するにいたったのかなどが語られている。
そしてじつはこのような部分こそが、近代になってオカルティックな思想や超国家主義的な主張の根拠となり、世界は日本のものだという奇想天外な妄想を生み出すことになるのである。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。
■国学者・平田篤胤の世界観
いや、その兆候はすでに江戸時代の国学のなかに存在した。
国学は、儒教や仏教に影響されるまえの、日本固有の文化や思想を探ろうとする学問である。江戸中期に興り、18世紀に活躍した本居宣長によって大成された。
幕末の萩で松下村塾を開き、伊藤博文や山県有朋、高杉晋作などの志士を育てた吉田松陰が「本居学と水戸学とは(中略)尊攘の二字はいづれも同じ」と述べているように、国学と後期水戸学は尊王攘夷思想を鼓吹した点でよく似ている。
だが、根本的な部分ではかならずしも相性はよくなかった。後期水戸学はあくまで中国の思想をベースにしているため、国学からすれば中国かぶれ(漢意(からごころ))だったし、国学は日本の神話をそのまま信じているため、後期水戸学からすればトンデモ(怪力乱神を語る)だった。
両者の違いは、それぞれの思想にもとづいて政治論を展開したとき、より明らかになる。
本居宣長を師と仰ぎ、19世紀前半に活躍した国学者の平田篤胤の思想をみてみよう。
平田は、その主著のひとつ『霊(たま)の真柱(みはしら)』のなかで、日本は「万国の祖国」であり、天皇は「万国の大君」なのだから、いずれ世界中の国々の指導者は、日本の天皇に臣従するだろうと楽しげに予想している。
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終(つい)には理の如く、千万国の夷狄(えみし)の酋長(かしら)ども、残らず臣(みやつこ)と称して、い這(は)ひをろがみ帰命(まつろい)奉り、百八十船の棹梶干さず、満つらなめて貢物(みつぎもの)献り、畏み仕へ奉るべき理明らかなるものぞ。あなあはれ、楽しきかも、歓ばしきかも。
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『霊の真柱』は、日本の神話にもとづき、世界の成り立ちから魂の行く末までを説明した宇宙論的な著作である。仏教では死後の世界を語ってくれるのに、神道は語ってくれない。そのような批判に応じて、1813(文化10)年に刊行された。
そのため、全編にわたってさきほどのような妄想を書き連ねてあるわけではない。ただ、その立ち位置から、どうしても日本中心主義に陥らざるをえない構造になっている。
死後の世界への不安を解消するためには、宗教的な世界観を受け入れなければいけない。『霊の真柱』のばあい、その宗教的な世界観とは記紀神話がベースだった。しかるに、記紀神話は当然ながら、日本の神々が主人公であり、かれらが世界をつくり、死後の世界も司っていることになっている。それをそのまま受け入れると、諸外国は枝葉の扱いにならざるをえない。
すでに本居のなかにみえる発想だが、平田はそれをさらに過激化させている。かれは、『旧約聖書』にみえるアダムとエバの神話さえ、日本神話が誤って伝わったものにすぎないと述べるのだ。
これにつけて思ふに、遥か西の極なる国々の古き伝(つたえ)に、世の初発(はじめ)、天神(あまつかみ)既に天地を造り了りて後に、土塊を二つ丸めて、これを男女の神と化し、その男神の名を安太牟(あだむ)といひ、女神の名を延波(えば)といへるが、此二人の神して、国土を生めりといふ説の存るは、全く、皇国(みくに)の古伝の訛(よこなまり)と聞こえたり。
江戸時代ともなると、このように世界の思想や宗教が入ってきている。それにたいして、日本の神話だけで世界の成り立ちや魂のゆくえを説明しようとしたところに、平田の無理があったといえよう。
平田はこれ以外にも、古代日本には漢字以前に文字が使われていたと主張していた。中国に文字を習ったのは、プライドが許さなかったのだろう。1819(文政2)年には、『神字日文伝(かむなひふみのつたえ)』を刊行して、みずから収集したとされる「神代文字」を紹介した。
皮肉なのはその文字がどうしても、1446(文安3)年に李氏朝鮮でつくられたハングル(訓民正音)にしかみえないということである。
■ 「東京」の名付け親・佐藤信淵
このような平田の無理は、しかし、弟子の佐藤信淵によっていっそう深められた。
佐藤信淵は、平田とほぼ同世代の思想家である。諸国を遊歴してさまざまな学問を習うなかで、平田からも国学を学んだ。現代でいえば万物に言及する「知の巨人」タイプで、その著作の幅広さから経世家とも農政家ともいわれる。
そんな佐藤信淵は、1823(文政6)年に成立した著書『宇内混同秘策(うだいこんどうひさく)』のなかで、独自の日本列島改造論をぶち上げている。すなわち、江戸を東京と改称して首都とし、浪華(大坂)を西京と改称して別都とし、全国を14の省に再編成せよ、と。
あまり知られていないが、じつは東京の名付け親はこの佐藤なのである。
列島改造論は現在の道州制みたいなものなのでまあいいとして、問題は、それをなんのためにするのかということだ。佐藤の答えは、なんと世界征服だった。そしてその根拠もまた日本神話に求められた。
『宇内混同秘策』は、いきなりつぎの一文からはじまる。
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皇大御国は大地の最初に成れる国にして世界万国の根本なり。故に能く其根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし。
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日本は世界の最初にできた国であり、世界の根本である。その経緯にかんがみれば、日本は世界をみずからの一地方とするべきであり、万国の指導者もみな臣従させるべきだ──。
平田の国学に影響を受けたのは明確だが、佐藤のばあい、そのプランがきわめて具体的だった。
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☘️ヤフコメ❗️ピックアップ☘️
✅ まさに戦前とは何かというテーマにピッタリな話題ですね、話は飛びますがいまのらんまんって朝ドラも馬琴や印刷所を見ても前の時代との繋がりを感じます最近多いですね戦前のリアルさを追求するやつが、かつての高度成長期では前の時代は全て悪物で現在でもそんな風潮が根強い勝てば官軍という風潮が、この記事を見て幕末って何かと考えされましたプロパガンダに躍らされていただけなんですよ。
✅ 「篤胤・信淵、巨人の訓~」とあるように、両者の久保田、というより奥羽バイアスが、「東京奠都構想」源流になったような面は否めない。
奥羽~上方間は出羽目線でも遠過ぎ、勢い江戸に…となるのは必定だ。
維新後、西軍サイドも大阪奠都・京都留都論を退け、敢えて東京奠都に舵を切ったのも、江戸の巨大ストックや関東の広大低地の転活用、そして千蝦奥羽越の抑え、というより赦免に一転舵を切った地政学的背景も大きく、既に勝海舟・西郷隆盛と取引済で既定事項だったのではないか?
実際、対樺蝦奥羽信越目線での東京のターミナル・上野は、その主要機能を明渡して久しい今なお、鉄オタで無くても「神聖視」扱いだ。
東京奠都はやはり正解で、戦後世界最大級のメガシティにのし上がっても、皇居から半径60キロ圏内にコンパクトに纏まり、昭和中期までの東名阪の均衡ある発展→東海道メガロポリス形成に繋がった。