イラク ヒロシマ通りがある訳
⭐︎記事要約⭐︎
中東に「クルド人」という人口約3000万人の民族がいる。十分に一つの国を作ってもおかしくない規模だが、クルド人は国を持っておらず、イラクやシリア、トルコなどの山岳地帯に国境をまたいで住んでいる。
「山だけが友達だ」。クルドの人々にはそんなことわざも伝わる。確かに彼らの居住地を訪れると見事に山だらけ。
◇毒ガスはなぜ投下されたのか
「国を持たない世界最大の民族」と呼ばれるクルド人。その多くはイスラム教スンニ派で、少数ながらキリスト教徒やユダヤ教徒もいる。
彼らは少数民族として度々弾圧されてきた歴史があり、中でも語り継がれているのが、88年3月16日に起きた「ハラブジャの悲劇」である。イラクのクルド住民約5000人が、当時のサダム・フセイン政権に化学兵器で殺害された事件だ。
88年といえばベルリンの壁崩壊の1年前で、そろそろ東西冷戦も終わる頃だった。日本はまだバブルの好景気に沸いており、この年の流行語は「ペレストロイカ」「5時から男」「しょうゆ顔・ソース顔」などだった。同じ時期、中東では戦争をしていた。80年に始まったイラン・イラク戦争がまだ続いていた。
このイラン・イラク戦争がクルド人虐殺の背景である。イランはペルシャ人、イラクはアラブ人が多数派だが、前述の通り国を持たないクルド人は双方にまたがって住んでいた。そして両国政府はクルド人を利用し、ともに相手政府をかく乱しようとしていた経緯がある。こうした中、「クルド人が敵国イランと内通している」との疑念を深めたイラクのフセイン大統領が、イラン国境近くに住む少数民族クルド人の殺害を決めたのだ。ハラブジャでは猛毒のサリンやマスタードガスなど複数の物質が投下されたとみられている。
◇見て見ぬふりをしたのは誰か
フセイン政権崩壊後、ようやく事件の残虐性を語り継ぐための追悼記念館がハラブジャに建設された。館内には当時の写真が展示されている。目をむき、口から泡を出して息絶えた子供たちの遺体の写真は、とても直視できない。取材の終わり際、記念館職員の女性がこう話してくれた。「今もハラブジャ出身者は『毒ガスを浴びた体だ』と言われ、男女問わず結婚や就職を断られるケースが後を絶ちません。今もここは周囲から見れば『毒ガス村』なのです」
◇「ヒロシマ通り」に込めた思い
山に囲まれたハラブジャはのどかな田舎町である。町を歩いていると、交差点でふと1枚の看板を見つけた。道の名前を示す板にアルファベットで「ヒロシマ通り(Heroshima St)」と書かれている。同行したクルド人の案内人がこう話した。
「同じ大量破壊兵器である原爆を落とされた広島の人々に共感を寄せ、ハラブジャ市当局が名付けた」
悲劇を体験したハラブジャの人々は、過去に遠い日本で起きたこともわがことのようにとらえ、新しい道の名前を付ける際にこの名を使ったという。
化学兵器は第一次大戦で初めて本格的に使われた大量破壊兵器である。ドイツの化学者フリッツ・ハーバー博士が開発した毒ガスは1915年4月、ベルギー西部イーペルでの攻防の際に投入された。その後、ドイツ軍も英仏など連合国軍も各地で化学兵器をたがが外れたように使い始め、戦闘は泥沼化していった。
核兵器などに比べて化学兵器は比較的安価で製造できるため、「貧者の核兵器」とも呼ばれる。こうした中、97年には使用や生産、貯蔵などを全面的に禁じる「化学兵器禁止条約」が発効した。
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★ヤフコメ!ピックアップ★
・本当はこうした同じ痛みをもつ者がみな一致団結して化学兵器の根絶を叫ばなければならないはずなのに、その傘の下に守られて暮らしている悲しい皮肉。
・トルコも含め歴史問題はあるが全く普通に生活してるらしい。歴史問題なんて個人が日常で感じ続ける事ではない。