斎藤佑樹が回想する 早実の理不尽なルール
✍️記事要約
早実の1年生ピッチャー、斎藤佑樹は夏の西東京大会のメンバー入りを果たした。背番号は18。シード権を得ていた早実は3回戦からの登場で初戦の富士森を11-1と一蹴。4回戦で工学院大附と対戦する。
■憧れの"WASEDA"ユニフォーム
よく間違われるんですが、早実のユニフォームは立ち襟ではありません。早稲田大学のユニフォームが立ち襟で、高校時代の僕が白のハイネックのアンダーシャツを着ていたからそう思われるのかもしれませんね。左袖についている「B」のマークは早稲田"実業"の"ビジネス"を意味しています。
中学の時、神宮の早慶戦を見て惹かれた早稲田大学の選手と同じアイボリー基調の、胸に"WASEDA"の文字がついた早実の試合用のユニフォームに初めて袖を通した時は、やっぱり感動しました。公式戦の背番号をつけて、着てみて、写真も撮った覚えがあります。
ただ、その写真を見た覚えがないんですよね。どこかに残っているのか......最近、自分で写真を撮るようになって思うのは、昔の写真を整理して、ちゃんととっておけばよかったということです。撮られるだけのときは、そんなことは考えもしなかったんですけどね(笑)。
当時の1年生で夏の大会のメンバーに入ったのは僕を含めて3人でした。後藤(貴司)が唯一の1ケタで5番、僕が18番で神田(雄二)が19番でした。ピッチャーは僕だけです。
とはいえ、ピッチャー、野手関係なく、もし1年生がひとりでもメンバーに入るなら当然、僕は入らなきゃダメだという気持ちはありました。ただ、1年の春はとにかく群馬から早実へ通うことが大変すぎて、試合に出た記憶も、自分のどこを評価されてメンバーに入ったのかも覚えていないんです。春のセンバツに出た直後の常葉菊川と練習試合をした記憶はあるんですけど、自分がどうだったのかはまったく記憶にない(1年生ながら好投するも、2本のホームランを打たれた)。
唯一覚えているのは、5月だったかな......長野の駒ヶ根にある施設で野球部が合宿した時、アップダウンのある1キロくらいのコースを10周させられたランニングがやたらとキツかったことくらい(笑)。結果、夏の大会を前に背番号をもらったのはうれしかったけど、背番号1ではなかったので、これは通過点だなとも思っていました。
■初めての夏は4回戦敗退
ピッチャーとして、高校に入っていろいろ変えなきゃダメだと思ったことはいくつもありました。とくに和泉(実)監督やコーチの方から指摘されたのは、体の開きが早いということです。だから開きを抑えるというのは、高1の時の僕のテーマでした。
バッターに向かっていく際、なるべく回転のスタートを遅くさせることを意識して投げていました。今となってはスローカメラやデータから分析すると、いわゆる開きが遅いと言われるピッチャーは、足を着いてからリリースまでの時間が短い傾向にあると聞いたことがあります。だから、そこの時間を短くすることさえ意識すれば開き云々は関係ないし、今の僕は開きが遅いほうがいいとは思っていないんですけど、ただ、当時は「開いちゃいけない」と自分自身に言い聞かせながら練習していました。
1年の夏、西東京大会は3回戦からでした。春の都大会で2位になったので、シードされていたんです。初戦の相手は都立富士森で、1年生では後藤が試合に出ました。
初回にミスから先制されましたが、すぐに打って返して、あっという間に逆転。11-1で勝って4回戦へ進みます。次の相手は工学院大附。日大二にサヨナラで勝って勢いに乗っているという話は聞いていましたが、甲子園に行けると思っていた僕らからすれば、負けるはずのない相手でした。
ところが、その試合で僕らは負けてしまいました。延長10回、3-4です。試合の内容は細かく覚えていないんですけど、負けて思ったのは、140キロを超える真っすぐを投げられるレベルの高いピッチャーが2人(村山航也、日野頼人)もいたのに甲子園へ行けないとなると、この先、もし僕がひとりで投げるとなったら、これはもう圧倒的なレベルにならないとダメなんだなということでした。
だから少なくとも2年の時にはこの2人のレベルに追いついておくこと、3年になったら、もうそういう次元で考えるわけにはいかないところまでいかなきゃいけないと考えました。
■ハードトレで140キロ到達
新チームがスタートして、秋の大会で僕は11番をもらいました。背番号1は僕の一つ上の高屋敷(仁)さんでしたが、その時、悔しさは感じませんでした。高屋敷さんの立ち居振る舞い、練習への態度はエースに相応しいと、チームのみんなも僕も思っていましたし、僕は周りから見て「斎藤ってメチャクチャ練習してるよな」と言われるタイプではなかった。練習は必要なだけの量を十分やればいい、という感じでしたから、「オレはエースってタイプじゃないよな」なんて思っていたんです。
その時も、正直に言わせてもらえば「実力では絶対にオレのほうが勝ってる」とどこかで思っていたのかもしれませんし(笑)、そのうち、このチームのエースには僕がなるんだというつもりで投げていました。その時、僕のマックスのスピードは137キロだったので、140キロを目標にしていました。
その頃、僕は高屋敷さんと一緒にトレーニングジムに通っていました。2つ上の椚(くぬぎ、泰治)さんという先輩に連れていってもらったのが最初で、横浜高校の松坂(大輔)さんや涌井(秀章)さんがやっていたというサーキットトレーニングをやらされて(苦笑)いたんです。
16種目を30分以内に終わらせるトレーニングなんですけど、これがやたらキツい。一つひとつの種目をすべて、自分の上げられるフルの重さでやらなくちゃならないんです。しかも、そのキツいトレーニングをしたあと、最後にさらに追い込むトレーニングがありました。
下半身だけを追い込むメニューで、それをやると、終わったあとの帰りがけ、手すりにつかまらないと階段を下りられないほどです。次の日も筋肉痛で依然として階段を下りられない。筋肉痛が残っている間は投げられないんですけど、1週間くらい、痛みが続きました。あれは本当にしんどかった。
もしひとりで通っていたら、たぶんどこかで「もう、いいや」となっていたかもしれません。高屋敷さんが毎回、「斎藤、行くぞ」と誘ってくれたから、通っていました。高屋敷さんと一緒だとチームのメニューとは別にトレーニングに行くことも許してもらえたんです。高屋敷さんの頑張る姿を見ているから、和泉監督も任せていたんでしょうね。
ただ、それほどキツいトレーニングを続けた成果は間違いなくありました。筋肉痛が引くと超回復した感じがあって、ブルペンで投げるとボールがものすごく軽く感じるんです。実際に測っているわけじゃないので正確なスピードはわからないんですけど、「これ、140キロ、出たんじゃないの」という手応えはありました。そんな毎日を続けて、一冬越して、年が明けて、春の大会の前には142キロが出ました。
■理不尽な早実野球部のルール
もともと僕は遠投を大事に考えていて、1年生の時は白川(英聖)と一緒によく遠投をしていたんですけど、その効果もあったと思います。だいたい、90から100メートルくらいだったかな。当時の白川はピッチャーで、お互い、けっこうな距離を投げられたので、いかに低い弾道で投げられるかを競い合いながらやっていました。中学の頃から、スピードを出すためには遠投がいい練習だと感じていたんです。
野球に関しては、高校のレベルでもあまり壁にぶつかったとか、挫折したという記憶はありません。実際にそうだったのか、それとも覚えていないだけなのか、そこはわからないんですけど、あの時期、大変だったのは野球以外のことでした。
学校の近くのアパートを借りて、予備校に通う兄と暮らし始めたんですけど、通学時間は短くなったものの、やっぱり食事のこととか、いろいろ思うに任せないことはいくつもありました。
とくにキツかったのは、早実の野球部に残っていたいくつかの理不尽なルールでした。当時、早実の野球部には、1年生は学食を使えない、コンビニに立ち寄ってはいけないという決まりがあったんです。正直、これには参りましたね。
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この時期、斎藤の朝食は納豆とごはん、昼は兄の聡仁さんがつくってくれた卵焼きとウインナーのお弁当。夜は、週に一度の上京をしていた母のしづ子さんがつくり置きしていたおかずを食べていた。
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☘️ヤフコメ❗️ピックアップ☘️
子供達は日本の宝です、決して使い捨てじゃありません。
指導者の方々には技術指導は基より、競技から離れた処でも極め細やかな指導をお願いしたいです。
✅ ハンカチと同じ太田市生まれ(母の実家)で群馬の公立校出た俺としては、ぜひ太田高校行って欲しかったが、太田高校では甲子園に行けなかっただろうな。
そうすればたぶん平凡な野球人生でプロには行かず、今頃は有能なビジネスマンでバリバリ働き出世街道まっしぐらしてそう。
✅ >当時、早実の野球部には、1年生は学食を使えない、コンビニに立ち寄っては
いけないという決まりがあったんです。正直、これには参りましたね。
ハンカチ王子の世代にもこんな無意味で軍国主義的な名残があったとは。
しかも早実でとは驚きです。
今の大阪桐蔭にはそういう悪習はないと聞いてます。
全国からスーパー中学生が集まる要因にもなっているのでは?
野球の上達に軍隊式パワハラ指導は必要ないです。